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愛希穂
凛桜さん、こんにちは。
> あなたは
あなたのままでいいんだよ
この言葉は子どもにも、大人にも必要ですよね。
まるごと、そのまま受け止めてもらえたら、この詩のように言ってくれる存在があればいいですよね。
私にとっては、それはイエス・キリストです。
2~3年前にイエス様にギューッと抱きしめてもらった夢を見たんです。
そして、この凛桜さんの詩にあるように、
「あなたは、あなたのままでいいんだよ」って言ってもらっているようで、夢の中でボロボロ泣いていたのも覚えていて。
子どもにとって私もそういう存在でありたいと、今、少々長男とバトル中なので、尚更思います(^^;)。
凛桜*Rio
愛希穂 さまへ
愛希穂さん こんばんは。
いつもありがとうございます。
素適なお話ですね。
夢の中で、イエス様に抱きしめて頂いたのですね。
読ませて頂いたら、私も、
「あなたは、あなたのままでいいんだよ」と、
「大きな愛」で包み込んでもらえる安心感を覚えました。
大切な人のことを、手放しで抱きしめることができたなら、
自分の頑な心も開放できるのかもしれないですね。
そうはいっても
自分の子どものこととなりますと、
「愛」が深いだけに、本気で向き合ってしまうものだと思います。
そんな親の気持ちも、子どもの気持ちも、
神さまは、「大きな愛」でもって、いつでも温かく見守り、抱きしめてくださっているように感じます(^^)
愛希穂さんのご長男さんも、「お母さんの愛」と「神様の愛」を、
心の根っこで、ちゃんと分かっていらっしゃるのでしょうね。
☆バーソ☆
おはようございます。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かち合うため十字架を背負ったのだ」
信者たちの苦難に、主は「沈黙」していたのではなく、共に「苦しんでいた」。踏み絵の痛みや苦しみも分かち合い、教会からは棄教と批判されても、主は分かってくれる。
信徒が苦しんでいる時にも神は沈黙を貫く。
司祭が棄教した理由だ。遠藤の主人公は拷問すら受けない。踏み絵に足をかけるのも、苦痛に耐えかねてではない。沈黙を続けていたはずの神が「踏むがいい」と語りかけたから、なのだ。ロドリゴ
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私は、以前は自分を卑下するのが好きでした。おおむね、何事も表面に出て目立つことより、控えめに縁の下の力持ちになるようにしてきました。
そうするほうが謙遜でいいことだと思っていたからですが、でも自分の心の中を分析すると、じつは潜在的に自信が今一つなかったのかもしれないなあと思います。
子供の頃は学級委員に9回連続で選ばれたこともあり、頭脳については自信があったほうなんですが、総合的には自分が好きじゃなかったので、何かと自分の性格的な欠点や失敗が気になり、いじいじと悔やむことがよくありました。生来が明るい開放的な性格ではなかったのです。
なので、
「すべて持って
ここにおいで
あなたは
あなたのままでいいんだよ」
ということをもっと早く知っておいたらよかったのにと思いますね。そういう感覚は精神世界の教えを知るまで持てませんでした。それまでは聖書に30年以上どっぷり漬かっていたので、ただただ自分の罪深さを責めることが多かったですね。
遠藤周作の『沈黙』で、司教ロドリゴが、迫害で信者が苦しんでいるのに、神はなぜ沈黙を守っているのかと悩んでいるとき、踏み絵のイエスの絵が、「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かち合うため十字架を背負ったのだ」と言う場面があったと思います。
私もキリスト教徒だった頃は、信仰のためにはそれこそ死ぬ覚悟でいたのですが、いま思うと、そんなことを神は望んでいないのですね。神は無条件の愛であり、自分への忠節のために人間が死ぬのが正しいなどとまったく思ってないはずなのです。
生きていると誰でも間違いや失敗があるのですが、それでもその繰り返しが人生なんですね。それが分かるようになったら、「神は死んだ」とか「神は沈黙している」などと思わなくなりました。
でも、「すべて持ってここにおいで」と書けるひとは幸いですね。そこに行けるところがある人も幸いです。そこを夢で見られる人も幸いです。
そしてじつは、みな自分では気づいてないですが、みな生きているだけで幸いだと思いますね。
「地球に生まれてよかった。あなたに出会えてよかった。ありがとう」と書ける人はとても幸いだと思います。
そんなことを思うと、この広々と抜けた青い空と遠くに拡がる水平線の写真はぴったりですね。
凛桜*Rio
バーソさまへ
バーソさん こんばんは。
いつも、物事を深い視点で見るきっかけを与えて頂き、ありがとうございます。
数年前に、岩手県一関市にある「キリシタン殉教公園」を何度か訪れました。
私は特定の宗教に属してはおりませんが、この地に足を踏み入れた時、歴史的な宗教的迫害により殉教という死を選んだ人たちに思いを馳せた時、涙が止まりませんでした。
また、私が生まれ育った仙台を築いた「伊達政宗」の家臣、支倉常長は、使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、様々な業績と共にカトリック教徒として帰ってきましたが、その時日本は鎖国政策への転換期。キリスト教禁止令が発せられたため、政宗の計らいも及ばず、仙台藩には戻ることができませんでした。その朗読会に参加した時も、切なくて胸が苦しくなりました。
自分が信じたいものを、力によって奪われてしまうことの苦しみ。
それでも、心の中にあるものだけは奪われることはないのだな、とも思いました。
また、誰かが信じ、大切にしているものを否定したり奪ってはいけないとも思いました。
キリスト教のことをきちんと学んだことはありませんが、イエス様は、大いなる存在(神様)からのメッセージを、人間に伝わる言葉に変換し伝える役割を担われた方だったのかな、と思っています。
仏教でいうなら、お釈迦様と同じお立場なのかな、と。
そして、そこで共通している教えは、
「大いなる存在(神様)は愛である。そして、その分身(分け御霊(わけみたま))である私たち一人一人も「愛」である。 だから、自分を愛し、他人も自分と同じように愛すること、それが幸せなんだよ。」ということなのかなと思っています。
一つ分からないのは、キリスト教の布教の看板をたまに見かけますが、「罪を悔い改めよ」「そうでないと地獄に落ちる」「イエス様を信じる者だけが天国に行ける」といった内容です。
イエス様は、人間が苦しんでいる姿に寄り添っていただけではないのかなと。
子どもの頃は、キリスト教だけでなく、仏教の世界でも、「良い子にしていないと地獄に行く」という戒めの教えを知らされるたびに、恐怖感が募りました。
でも今は、行いにも出来事にも、良いも悪いもないと思っています。
人間が起こす行動すべてを、大いなる存在は「愛」でもって、受け入れてくれていると信じています。
バーソさんの子ども時代、そしてキリスト教徒だった時代のこと。
それは、今振り返ってみた時に、幸せな感じがするものではないかもしれません。
でも、私は、そのような経験をされ、そしてそこからご自身の道を見つけられ、その道を信じてここまで来られたバーソさんが表現されるブログの世界観が好きですし、出会えてよかったと心から思っております。
また、「すべて持って ここにおいで。あなたは あなたのままでいいんだよ」という言葉なんですが、これは私が考えた言葉ではありません。いつもの作品よりも、より強いインスピレーションで降りてきたものを、そのまま載せております。
ですので、実は、投稿するかどうかとても迷いました。
私の思考が入った場合は、「あなた」という表現は、なんだか上から目線のような感じがして使えないからです。
それでも、頂いた直感を信じて、投稿することにしました。受け取ってくださる方の感受性に委ねさせていただくことにしました。
不思議な話をしてしまい、混乱させてしまったら申し訳ありません。
そして!バーソさんが仰るように、私も「生きているだけで幸せ」だと思っております。
「地球に生まれてよかった。バーソさんに出会えてよかった。ありがとうございます」
☆バーソ☆
おはようございます。
「ロドリゴ」で終わる点線までの文章は、全文を正確に思い出せなかったので、検索して保存したものですが、うっかり、それがそのまま出てしまいました。失礼しました。
愛の神が、人間が果実を食べたぐらいでアダムと妻を罪ありとして死ぬようにしたのはまだしも、さらにその「原罪」をアダムの子孫まで遺伝で伝えさせ、全人類を罪びとして断罪するのは、よく考えると非常に意地が悪く、陰湿なのですが、それはキリスト教徒はあまり気にしてませんね。私もかつてはそうでした。神には愛とともに公正という特質もあり、それを両立させる必要があると思ったからです。
しかし普通、人間を火で焼いたり剣で刺し殺せば、陰湿で残虐な狂人扱いされ、極悪人として裁かれます。地獄は悪人を永遠に苦しめる場所であると教えているのなら、それは神の「無条件の愛」と非常に矛盾しています。
ですから凛桜さんが違和感を感じたのは正しい反応だと思いますね。
「すべて持って ここにおいで。あなたは あなたのままでいいんだよ」は、強いインスピレーションでしたか。私もなんとなくそうではないかと感じていました。この言葉はそういう空気感を発していますから。
この言葉は慈愛があって、寛容があって、温かさがあって、いいですね。そういう存在を身近に感じられるのはすごくいいですね。
凛桜*Rio
バーソさまへ
バーソさん こんばんは。
差し上げた返信コメントに、ご丁寧なお返事を書いてくださり、ありがとうございます。
「ロドリゴ」までの文章、そうだったのですね。
あえて、詳しい内容を最初に持ってこられたのかな、と思っておりました。
バーソさんは文章を自由に組み立てられるお力がある方ですので、違和感は覚えませんでした。
また、キリスト教の教えのこと、なるほどなぁと思うこともありました。ありがとうございます。
どんな教えであっても、自分が信じている人の言葉は信じたいと思うのが人間なのかな、と思いますし、私自身もそうです。
ただ、私には、一つだけ、その人の言葉を信じるかどうかの基準があります。
それは、バーソさんか書いてくださった神様の中にあるものと同じで、「無条件の愛」があるのかどうか、です。
これは私の考えですが、「嘘も方便」という言葉もあるように、人を傷つけないための嘘はあって良いと思っています。それは、そこに「愛」があるからです。
それから、この作品の言葉に「慈愛」と「寛容」と「温かさ」を感じてくださったのは、バーソさんが、心の中に同じものを持っていらっしゃるからだと感じました。
そんな方とブログを通してお会いできたこと、本当にうれしく、ありがたく思っております。
バーソさんに出逢うことができて、ブログを続けてきた甲斐がありました。ありがとうございます。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。